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邪馬台クトゥルフ〜弥生末期240年代〜の紹介と世界説明

Last-modified: 2011-06-23 (木) 14:38:55 (2435d)
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このミニサプリメントの紹介

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 この記事は3世紀半ばの倭国、特に耶馬台の国で生活する人々をプレイする為のミニサプリメントである。メインは一応240年前後を据えている。
 当内容では邪馬台国畿内説(奈良盆地以北)の立場を選んだ。そして耶馬台国の南、奈良盆地南部を中心に古代天皇王朝による古代大和国家が広がっているという、二国並存説を採択してある。
 なお、畿内並存説以外の立場に立ってプレイしたい場合は、この記事を参考にして自分なりに考えても面白いだろう。それはあなただけの邪馬台国となる。

時代の説明と年表

縄文時代

約1万年前から紀元前3世紀ごろまでの約8000年間。
1万年前ごろになると、気候が暖かくなって海面が上昇し、今のような日本列島ができた。
縄文土器(縄目の模様がないものもある。黒ずんだ色が特色)
打製石器・磨製石器・骨角器
狩りや漁が生産の主力(弓矢の発明)、貝塚(福井県の鳥浜貝塚)が残っている。
たて穴住居、土偶。
青森県の三内丸山遺跡
住居の作り方や墓地が共同であったことから考えて、身分や差別はなく、貧富の差もなかった。

弥生時代

紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500〜600年間。
大陸から米づくりの技術が伝わる。
静岡の登呂遺跡・・・たて穴住居、高床式倉庫、石ぼうちょう、木製農具
佐賀県の吉野ケ里遺跡。
弥生土器、青銅器、鉄器、銅鐸
社会の変化 → 定住生活、貧富の差、身分の差
社会の単位が「むら」から「くに」へ
力のあるむらのかしらは、豪族となって小さなくにを支配した

西暦日本で起こったこと世界で起こったこと
57奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国(後漢)の光武帝が金印を授ける。光武帝死去、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の3国競合
107倭の国(面土国)から使者を後漢に送り、奴隷を献上。ローマ帝国支配下で新約聖書が完成(但しまだ国教に非ず)、カトリック教会という用語が誕生 1世紀ごろ伽耶、百済より独立
150このころ倭の国に大乱が起こる(〜180年頃がピーク)、おそらく邪馬壹ら近畿勢と面土国を中心とする北九州勢の激突。 200年倭国で古墳文化138年ローマ帝国でアントニウス=ピウス即位(五賢帝の時代末期) 歴史上最長の金冠日食、法華経完成
239邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配。208年赤壁の戦い、220年後漢滅亡 234年五丈原の戦い諸葛亮病死、司馬忠達 魏の実権確保へ 238年魏帝 曹叡死去、晋建国へ
247卑弥呼死去242年高句麗 魏へ侵入 244年魏 高句麗へ侵入制圧
266倭女王壱与、晋に遣使。248年魏より倭国へ特使(邪馬台国と狗奴国の和平が目的) 265年晋建国 260年史上初のローマ皇帝捕囚ウァレリアヌス帝がペルシアの捕虜に

主要な国の国力(家の数)

対馬国1000余戸対馬島
一支国3000余戸壱岐島
末盧国4000余戸平戸島〜佐世保・松浦あたり
伊都国1000余戸糸島半島
奴国20000余戸福岡市+周辺地域、後漢から金印を受け取った、邪馬台国からは独立していたと見なすべき?
面土国不明有明海周辺、奴国に攻め入り、後漢に使節を送った形跡があるのである段階まで邪馬台国には未加盟?奴国を支配し北九州の盟主になった可能性あり(吉野ヶ里遺跡は今回の地図では面土国の領域)
不弥国1000余戸福岡県宇美町
邪馬台国70000余戸奈良盆地から大阪内海まで(現在は平野)地図上では邪馬壹(ヤマト)
投馬国50000余戸鳥取県(出雲)
狗奴国不明宇治あたりを中心とする蛮族およびその連合体、後に邪馬台国と衝突


地図上の「邪馬台国」は邪馬壹(ヤマト)と投馬(ツマ)の同盟を主軸とする連合国とする仮説に基づいているため単独の国を指すのではなく、連合体全体を指す。

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衣食

衣食についての簡単に解説しておこう。
貫頭衣という、大きな一枚布の中央に頭を通す穴があるだけの、極めてシンプルであり利便性の高い服装。現代でいえば袖無しワンピース。縫い目はなく、体に巻き付けて着用する。頭には木綿の布を巻いている。

全員裸足で、わらじなどは無い。女性は紅で化粧をしてオシャレを楽しみ、男子は全員が階級に応じた入れ墨を彫っている。

料理は高杯(たかつき、皿ではない器)に盛ってから、手掴かみか、もしくはスプーンを使って食べていた。当時、箸は食事用ではなく祭礼用に用いられたと考えられる。

社会

当時の社会についても簡単に解説しよう。
身分階級が存在し、非常に秩序だっており、租税や賦役を中央に納めていた。ただし当時どの程度がどれほどの価値だったのかは皆目不明なので、細かく追求しない方針である。

有力者は4〜5人の妻を持つ一夫多妻で、普通階級の者でも2〜3人の妻を養っている。婦人達は貞節で嫉妬をしないし、盗み事が無いので訴訟が少ない。だけど絶対無い訳ではない。法を犯すと国が妻子を没収することになっており、罪の重い者はその者の家族や一族を殺したとされている。

諸国にはいろんな場所に市場があって、そこでは物々交換が行われている。監督官は大倭といい、女王卑弥呼により命ぜられた者である。
身分の低い者が身分の高い者に会うと、後ずさりして道を譲る。意思を伝えるにはひざまづいて両手を地につけて、尊敬の意を表す。すると上の者は「ああ」と答えた。