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国家のリスト(能力)

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【軍事力→サイコロ+】変換表

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11D2D3D3D+13D+2→さらに+1

1:人類の始まり/紀元前8000年〜紀元前600年

勢力軍事力商業力スタート地区
■遊牧民
ヒッタイト+12(ムワタリ)
海の民12(?)
スキタイ/匈奴+13(イダンテュルソス)
アーリア2(ザラスシュトラ)


国名解説
ヒッタイト紀元前2000年程度からは強力な国家を建築したヒッタイトは古代の有力な遊牧民族で、エジプトと中東(地中海沿岸)の覇を競い何度も戦っています。当時は青銅器が主流な中で、強力な鉄器の武器を製造する技術を持ち、非常に恐れられました。鉄器を製造する技術はヒッタイトが滅亡するまで秘密にされました。
海の民地中海を席巻したとされる海洋蛮族。「地中海版スキタイ」という趣がありフェニキア人のような海洋民族を中心に、ギリシア人や、エトルリア人、シラクサ人などが含まれていたとされる。ミノア(エーゲ)文明を滅ぼしたという通説があり、またエジプトに幾度も侵攻を繰り返した。ちなみに海上の治安が確立しない時代においては「通商に失敗すると海賊になる」という事はたびたびあった、後の「倭寇」なども海賊行為でも知られているが実際には交易商という話もある。
スキタイ/匈奴紀元前8世紀ごろから興隆したと考えられる、遊牧騎馬民族国家で、ギリシアの学者ヘロドトスの『歴史』にもしばしば取り上げられています。匈奴との文化的なつながりも指摘され、中央ユーラシアが文化や通商でつながっていた事を示す証拠と見られるようになった、なおスキタイは民族と考えられがちだが、実際にはギリシア系スキタイ(黒海沿岸都市に在住するギリシア系移民でスキタイ国家に属するもの)などの存在もヘロドトスは明記している。匈奴は中国に恐れられた遊牧騎馬民族。秦や漢をたびたび打ち負かしたり、協力して旧帝国を打ち倒したりしている。前漢時代には漢から貢物を受け取っていたし、三国志では袁紹や曹操との激戦が記録されている。匈奴の文化や風習については司馬遷が書き記している。
アーリア紀元前2500年頃からアーリア人は黒海沿岸を通じて、中東とインドに侵入した民族で「アリア」とはサンスクリット語で「高貴な」を意味する。後にナチスの人種差別政策の根拠として位置づけられた事で有名。ゾロアスター教の信奉した。


■帝国
シュメール101中東(ギルガメシュ)
エジプト311北アフリカ(スネフェル)
ドラヴィタ201インド(?)
アッシリア211中東(トゥクルティ・ニヌルタ)
バビロニア211中東(ハムラビ)
201中国(姫発(武王))
ギリシア413南ヨーロッパ(ペリクレス)
オルメカ200中米(?)


帝国解説
シュメール紀元前9000年頃、移住してきたシュメール人が農耕を初め、紀元前2700年頃にウルやウルクといった都市国家が繁栄し隆盛を極めた。ジッグラトを立て都市の守護神を信奉した。紀元前3500年頃に楔形文字を使い始めた。都市の建造、文字、商業、農業、牧畜、天文学、暦造り、酒造り(ビールやワイン)などを初めたため、人類文明の始まりを担った人々とされるが不明な点も多く、「とりあえず昔の史跡が出てそれがシュメール以前であればこれはシュメール人のやった事にしよう」というある種の「人類史の起源」のワイルドカードでもある。
エジプト紀元前5000年頃に定住をはじめた人々が農耕を初め。紀元前3500年頃からエジプト各地に乱立していた都市国家群が3000年ごろに統一された。3500年頃からヒエログリフ(神聖文字)を使い始める、メソポタミア(シュメールやバビロニア)と交易をもち、様々な影響を受けている、エジプトの統一もメソポタミア(ヒッタイト・アッシリア)からの脅威に備えるためと考えられている。
ドラヴィタ紀元前2600年から紀元前1800年の間で興隆した。インダス川とガッガル・ハークラー川(現在は消失)の周辺に栄えたとされている文明で、ドラヴィタ人が担ったと考えられています。有名な遺跡であるハラッパーは彼らの都市の跡だと考えられている。衰退の理由は不明だが、巨大な地殻変動で耕作、水運が停止したため衰退し、後のアーリア人の侵攻を受けたと考えられている。
アッシリア紀元前2000年頃から国家の体を作り始める。初期においてはメソポタミアの強力な帝国(シュメール人のウル第三王朝やバビロニア)の覇権下にあったが、強力な中央集権体制を保持し、紀元前1400年ごろから興隆し、紀元前1000年頃新アッシリア王国は中東の大部分とエジプトを制覇するまでに発展した。以外にも商業とその通商ネットワークが強く、上記の中東やエジプト支配は武力に拠るものであったがそれを支えるインフラも注目される。
バビロニア勢力としての確立はアッシリアより早く、紀元前2000年ごろにはすでにシュメール人の文化圏の南半分を支配し古代バビロニアを確立していた。世界で2番目に古いハムラビ法典を編纂した(「目には目を、歯には歯を」という言葉で有名で、与えられた損害と同等のものを加害者に加えるという法論理はわかりやすく有名)。しかし、紀元前1000年ごろにアッシリアに征服される。紀元前600年ごろバビロニアで勢力を持ったナボポラッサルが新バビロニアを建国し、その後中東を征服し、古代の4強国の一角を担った(エジプト・メディア・リディア・バビロニア)。ユダヤ人を大量移送した"バビロン虜囚"などで有名だが、この大量移住政策はアッシリアの得意技で、オリエントでは支配力の強化のために度々行なわれた。
殷→周紀元前1700年ごろ伝説の王朝である夏を継承した殷が成立、存在は確実だが規模は不明。紀元前1000年ごろから周が興隆する。伝説では武王が太公望や召公などの助けを借り、殷の紂王を打ち倒すことで生まれたとされる(この物語は封神演義としてマンガ化もされたので日本でも有名)。周は古代中国で存在が明確な初期の王朝なので周をメインに置く。後に衰退し、紀元前770年ごろ首都を移転、以後東周と呼ばれる一王国になり、中国大陸は春秋戦国時代を迎える。
ギリシア紀元前800年にはアナトリア半島の西岸からエーゲ海に至る勢力圏を確立していた。当時は当然奴隷制であったが、奴隷を使役する事で生まれた有閑階級が生み出した「遊び」としての「学問」が発展した。ギリシアは哲学の祖、「世界のあり方」や「人は如何にあるべきか?」という答えを探そうとした。地中海世界において文化的な影響力は抜群で、ギリシア国家群が衰退した後もギリシアの学問や宗教は信奉され続けた。ポリスという都市国家の中で直接民主制により国を治め、市民による直接的な税としての兵役でも有名、ギリシアの重装歩兵は士気(やる気)、錬度、装備において当時の世界では最強で、数では十倍を超えるのペルシアからの侵攻を退けているが、ギリシア国家群(ポリス)間で外交的に安定せず敗退する事もたびたびあった。ギリシア人は地中海全域に進出し、黒海沿岸、南イタリアやシチリアにも移住を行なった。もっともイタリアのタラントや、シチリアのシラクサは"マグナ・ギリシア(大ギリシア)"とは呼ばれていたが、そもそも"本国"であるアテネやスパルタも厳密には統一国家を作ったことはなく、タラントやシチリアも強い交流を持っていたが独立していた。
オルメカオルメカ文明は紀元前1250年ごろから興隆を初め、メソアメリカ全域(現代で言うメキシコ)に広がった。巨石文明で、巨石人頭像が有名。ジャガーを崇拝し、ヒスイを水の象徴としてあがめたと考えられている。南米全域に影響力を持つ宗教の聖地であったらしいラ=ヴェンタ島とその神殿を有している。ラ=ヴェンダ島には有名な巨石人頭が4体、ジャガーのモザイク、粘土のピラミッドなどが発見されている。この小さな島には石材が産しないことからこれらは宗教的な理由で奉納されたものだと考えられる。ある意味ではオルメカは南米のギリシア(とデルフォイ神殿)、あるいは日本における出雲(と出雲大社)と言えよう。


■小帝国
チャピン100南米(?)
ユダ205中東(ダヴィデ)
縄文→弥生211極東(スサノオ)
箕子朝鮮211極東(衛満)
アヴァンティ王国111インド(プラディヨータ)
ラピタ211オーストラリア(?)


チャピン日本では弥生時代(紀元前1000年〜紀元前300年)当時にアンデス山中で栄えた文明、石造りの町をもち、巨大な地下通路を整備している事で有名である。ちなみに1996年にペルーの日本大使公邸占拠事件において、大使公邸への突入作戦の名前は"チャピン・デ・ワンタル"であるが、これはこのトンネルがチャピン遺跡を思わせるからつけられた名前だと言われている。公使館を占領したMRTAがトゥパク・アマル革命運動という民族自立運動を行なっていた事とも関係があるのかもしれない。
ユダユダヤ人は古代中東、地中海沿岸地域に住んでいた人々であったが、奴隷としてエジプトで使役されていたが、モーセに率いられてエジプトを脱出、約束の地カナンにおいて苦難の後(カナン到着時に神に不平を言ったためさらに40年の放浪を強いられた、とされている)、紀元前1000年ごろに古代イスラエル王国を建国する。しかし有力な王であったソロモン王が死んだ後国家は分裂、バビロニア、ペルシア、マケドニア、シリア、ローマに次々と占領され続けた。ローマに対しての反政府運動とその集大成としての独立戦争に失敗し、パレスチナを追放されるが、商業・金融の民としてヨーロッパや世界各地で存在感を示しつづけた。その後、西暦1948年に再度独立し、イスラエルを復興している。
縄文→弥生紀元前1万2000年前から継続した、シュメール文明を思わせる長大な文明。豊かな自然に育まれた、半定住の縄文文明は世界で初の土器を開発するなど当時としては先進的な勢力圏であったが、気候変動で衰退(大陸からの移民との抗争という説もある)。大陸からの移住者(中国人や遊牧民族)と混合する形で中国的な定住農耕社会に移行し、徐々に王権を確立したと考えられる。この後邪馬台国を経て大和朝廷に到る。
箕子朝鮮殷の太師であった箕子が、殷滅亡時に朝鮮半島へと移動して建国したとされている半伝説の国家、周の文王は箕子を崇めて、朝鮮候に封じたとされる。この後、秦動乱の亡命者によって転覆されるまで続いたとされるが詳細は不明。実際には「中国周辺」の諸民族の集まった集団であったのではないだろうか?
アヴァンティ王国紀元前1000年ごろから徐々に構築された国家群の1つ。アーリア人の南下と定着後に、ドラヴィタ人との混血であるインド=アーリア人によって作られたソーラサ・マハージャナパダ(十六大国)の1つ(他にはガンダーラや、ラーマヤーナで有名なコーサラ国がある)。丁度、釈迦の在世中に全盛期を迎えたため、仏典「アングッタラ・ニカーヤ」にも記されている。マガタ王国とインドの覇権を争うが、最終的には敗北しマガタ王国のマウリヤ朝に屈する
ラピタ紀元前6000年ごろから南太平洋の島々に拡散した人々の本流、ポリネシア人の源流と考えられている。土器の技術を持ち、黒曜石の交易を行った。南はニュージーランドから、北はハワイまで拡散した。その後各島で独自の進歩を遂げ、統一した文化圏としてはほぼ消滅、幾つかの島々は帝国的な趣を持ったが、大きな勢力にはならなかった(一説によると大陸の沈没による)。

2:帝国の時代/紀元前600年〜紀元後0年

勢力軍事力商業力スタート地区
■遊牧民
ゲルマン3(フリティゲルン)
チャンカ-12(?)
フン+13(アッティラ)
ケルト2(ウェルキンゲトリクス)


国名解説
ゲルマンゲルマン系諸族、もともとはスカンジナビア半島やそのバルト海周辺の狩猟民族が南下してきたと考えられる。スキタイの影響で騎乗もよくし、ケルトとは異なり、定住生活に親しまなかったので後々までローマ帝国に祟った、最終的にはゲルマンの一部族ゴート族が西ローマ帝国を崩壊させる
チャンカチャンカ族はインカ帝国の宿敵であった。南アメリカの高地民族。詳しいことはインカ帝国の記録からしかわかっていない、ユパンキによって打ち破られ、その後徐々に衰退したと考えられる。あるいはチャピン文明の後裔であったのかもしれない。
フン族かつてのスキタイの後継、西ユーラシアの遊牧民族を糾合し、ゲルマン諸族を侵略、まず間接的に、次に直接的にローマ帝国衰亡の原因となった。ちなみにフン族やスキタイが「ヨーロッパ寄りの」騎馬民族と考えるのは思い込みで実態はわかっていない。恐らく実相としては「モンゴル平原から黒海沿岸まで」の「草の道(陸のシルクロード)」は相互に干渉しあっており、フン族自体も「アジア系の遊牧民」であるという情報もある
ケルトケルト系諸族、ドルイド教を報じるため一定の統一性があり、かつて興隆前のローマの首都を占領、ゲルマン族へも介入するなど強精を誇ったが、ローマの興隆とともにラテン化、定住化が進み、最終的にはユリウス=カエサルによってローマ帝国に取り込まれた(この戦争についてのカエサルの手記であるガリア戦記は現代でも版を重ねる歴史的ベストセラーである)。しかし征服された当時においても鉱山開発や鉄の加工技術などでローマに対しても優位性を持っていたと考えられている。フランス人のルーツの1つと考えられている。


■帝国
カルタゴ713北アフリカ(ハンニバル・バルカ)
マヤ411中米(ヤシュ・ヌーン・アイン)
ソグド613東ユーラシア(スピタメネス)
ペルシア911中東(ダレイオス)
マケドニア1220南ヨーロッパ(アレクサンダー)
マウリヤ712インド(アショカ)
秦→漢812中国(始皇帝)
ローマ1633南ヨーロッパ(ユリウス・カエサル)


カルタゴ地中海の制海権を握っていたフェニキア人の末裔が北アフリカに建築した国家で地中海の制海権を長らく握っていた。最終的にはローマとシチリアの支配権を巡って衝突する、勇将ハンニバルはローマ全土を震撼させたが最終的には奮闘もむなしく敗北した、このときのローマの指揮官は若干19歳のスキピオでこの戦勝を称えられて"アフリカヌス"の尊称を与えられた。一時はローマの覇権下で経済大国として再興するが、ローマの元老院議員大カトーの執拗な主張で最終的にはローマによって首都カルタゴも一切の痕跡を残さず消滅させられ、滅亡した。
マヤマヤはユカタン半島、メキシコ南部、グァマテラを支配した文明圏で、巨大なピラミッドと精密な天文学で有名である。多い時には60〜70の都市国家が存在し、チチェン・ツィーアーのような巨大建造物をいくつも建てていた。アステカに圧迫されながらもマヤの文化圏はその後も生き残り西暦1600年のスペインの侵攻まで細々と生き残った。
ペルシア世界初、支配のシステムを確立した帝国と考えられている。街道や帝国内をエリアに分けて代官を置くなどの経済振興と支配の仕組みを作った。王の道、王の目、王の耳という名で知られる、道路や情報収集の仕組み、またその支配の仕組みはその後多くの国々に取り入れられている。インドの西部・中東全域を支配した後ギリシアへ侵攻するが失敗した。マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、サラミスの海戦などの英雄物語を生み出した。最終的には同じギリシア系のアレキサンダーによる侵攻を受け壊滅した。
ソグドソグド人はシルクロードを担ったオアシス国家とその通商網を作った人々。ペルシアやマケドニアと中国の漢との間での通商交易を行なった。遊牧とオアシスでの定住灌漑の両方を組み合わせた生活をしており。ペルシアの覇権下にあったことからマケドニアの侵略を受けている。最終的にはティムール帝国によってイスラム化され、イスラム圏に取り込まれたと考えられている。
マケドニアデルフォイ神殿での"世界の王"という神託を受けたアレキサンダーによるペルシア侵攻は世界的に有名な物語であろう。強固な市民歩兵(ファランクス)と、散兵、そして騎兵の効果的な運用で多くの戦いを敵軍の何分の一の兵力で制した。その後、支配体制が確立する以前にアレキサンダー大王が急死してしまい、即座に国家が分裂する(ディアドゴイ戦争)という流れは"ギリシアの蛮族"の名に相応しい、この点はアレキサンダーのロマンチズムの"罪"といえよう。もっとも当時の国では有力な指導者の死後に国家が乱れるのは一般的な現象ではある。ヘレニズムという東西交流の流れを作った(どちらかといえばアジアの優れた事物をヨーロッパに持ち込んだ)点など、文化的な面でも功績は高い。
マウリヤアレキサンダー亡き後、ガンジス川流域からインダス川流域(ちなみにこの地域の支配権はマケドニアから勝ち取ったのか譲り受けたのか、その点が定かではないが、アレキサンダーの部下たちはインドには興味が無かったようなのでなんとなく放棄されたのかもしれない)、アフガニスタンまでの範囲を支配し、インドのほぼ全域の支配者となった(インド南部は未支配)。アショーカ王の時代に最盛期を迎えるが、アショーカ王はカリンガ国(インド中部)を武力制圧した後仏教に傾倒し、武力拡張の停止、仏教の保護や、仏法を中心とした政策を行なった。このあたりの変わり身の上手さは、徳川家康を思わせる。
秦→漢秦は始皇帝によって起こされた王朝でそれまで帝王学の基礎であった老子の思想に韓非子の主張する「性悪説」を取り入れ国家を律し巨大な帝国を作り上げた。街道の整備や度量衡の統一などと共に、万里の長城の整備などを行い、現在のイメージされる中国らしい中国を作り出したのはこの始皇帝だと言えるだろう。二代皇帝の失政で国が乱れると、有力な将軍の項羽と劉邦が台頭し帝国の継承者を争ったが最終的軍事的に優れていたとされている項羽に対し劉邦が勝利して"漢"が成立した。ちなみに漢は成立直後、匈奴との全面戦争に入るが、白頭山の戦いにおいて完敗、匈奴に毎年貢物を送り、皇族を代々嫁がせなくてはならないという屈辱的な条件で和睦を強いられた。漢滅亡後は地方政府が乱立したがその後有名な三国志演義で描かれる三国鼎立時代に入る。
ローマローマは地中海世界を制覇した大帝国で、網の目状の現代的な舗装街道である"ローマ街道"やローマ法、また偉大な幾多の建造物(コロッセウムや石造りの上水道)、強力でよく訓練された歩兵隊(レギオン)で知られている。古代帝国の代表という事ができるだろう。歴史上もっとも有名な政治家であり、軍人"ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)"により元老院を中心とした共和制から、帝政に移行した。イメージから言うと帝政に移ってから領土が拡張したように思えるが、実際は地中海世界の制覇は共和制期にほぼ終わっており、帝政期には国内の安定(パクス・ロマーナ)を防衛する目的での軍備に切り替わっている。絶え間ない蛮族の移住と政治的硬直により徐々に崩壊していくが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は西暦1400年まで存続し、オスマントルコの侵攻でコンスタンティノ・ポリス陥落されるまで続いた。


■小帝国
パルティア622中東(ミトラダテス)
高句麗520極東(好太王)
インカ帝国422中米(パクティシィ・ユパンキ)
ティワナク・ワリ帝国212南米(?)
クメール321東南アジア(ジャヤーヴァルマン)
シュリーヴィシャヤ王国413東南アジア(スリ・ジャヤナーシュ)


パルティアパルティアは中東を制する大国で「小帝国」で扱うのべきか出自を考えると「遊牧帝国」とするのが適切かは悩むが数の制約もありここに含める(イラン高原はペルシャ系帝国の発生源である)。メソポタミア地域を巡って度々ローマと対立した。弓騎兵で有名で、ローマの将軍(であり大金持ちとして有名)であったクラックスの攻撃を受けたときには弓騎兵を活用しローマ軍を全滅させている。長らく中東の盟主であったが、ササン朝ペルシャにより滅亡される。
高句麗ツングース系一部族と思われる騎馬民族が朝鮮半島に作った国家。勇猛な民族で、最終的には朝鮮半島を統一し、しばしば隋の干渉を退けている(ちなみに中国と中国の北方遊牧国家とが拮抗してくると東の端である朝鮮半島や東の端である中央アジアで干渉合戦をすることが多い)。百済、新羅をはさんで、倭国と対決していたが、後に和解して人や物の交流が盛んになった、聖徳太子の師である恵慈、また長野県を中心に高句麗式積石塚が多数建造されるなど交流も盛んになった。ちなみに"狛=高麗(コマ)"で狛江という地名や、狛犬、壬申の乱などで出てくる"出雲の狛"などは高句麗からの渡来人、渡来文化である事を示唆している。
インカ帝国インカ帝国はペルー・ボリビア(チチカカ湖周辺)・エクアドルに跨る大帝国で4つの州にわかれた連邦制をとっていた。首都クスコから各州へはインカ道とよばれる街道が置かれ、最盛期には80部族、1000万人を超える人口を擁した。谷には橋をかけ、街道を敷設し、食料の備蓄庫を整備して、食料を人々に与える事で支配を確立したと考えられる。1533年ピサロの侵入を受け滅亡。
ティワナク・ワリ帝国インカ帝国の源流と考えられている帝国で、インカ帝国同様食料の生産及び備蓄システムをベースに権力が確立した。まあ、しかしユーラシアを見ると、一世代前の国家の趣を免れないが、それも"アメリカ大陸の東西幅の狭さゆえ(銃・病原菌・鉄)"という考察から考えると、歴史の無情を感じる。
クメールインドネシアのシャイレーンドラ朝から独立。土着のチェンラ王国の流れを汲む。全盛期にはインドシナ半島とマレー半島の大半を押さえた。王が即位するたびに新しい寺院を建立する文化があり、アンコールワットなど有名な寺院もこれらの王立寺院と考えられる。モンゴル帝国の侵入には朝貢し、体制を維持したが、宗教による政争で次第に衰退し徐々に分裂(タイやベトナムのベースになるスコータイ王朝など)、最終的にはタイのアユタヤ朝に首都アンコール・トムを占領された。
シュリーヴィシャヤ王国3世紀頃から存在が確認されるようになる、マレー系海上交易国家。マラッカ海峡を支配し、インド中国とも盛んに交易を行った。クメール王国などとの抗争で弱体化するが形を変えてマレー系国家は続いたが、1511年ポルトガルにマラッカ王国が滅ぼされた。


3:帝国の崩壊と再興/紀元後0年〜1200年

勢力軍事力商業力スタート地区
■遊牧民
モンゴル帝国+25
セルジューク4
バイキング-24
キプチャク4


モンゴル帝国モンゴル帝国はモンゴル高原を制したチンギス・ハンによって打ち立てられた大帝国。遊牧民を統一し、中国、ユーラシア、中東、東欧までを支配下におさめた。騎兵戦力を活用し、敵を翻弄した。遊牧の民らしく後衛の輜重隊は遊牧をしながら前進し、軍は1日に70kmも進軍できた、これは当時のヨーロッパの軍隊の2〜3倍にあたり、第二次大戦の軍隊と比較しても高速であった。軍事強国として知られるが、統治システムにも優れており、駅伝制による情報伝達システムや、街道網の安全を確保(マルコポーロはこの街道を通りベネチアから中国まで旅をした)、信用をベースにした紙幣の発効などを行なっている。ただし分割相続の伝統を持つため徐々に崩壊していった。
セルジュークモンゴル平原よりも西(カザフ草原方面)を起源に持つ遊牧集団で、様々な民族と混合しながら中東にたどり着く。アラブ帝国弱体化後、ペルシアを中心に一時は中東全域を支配した。形としてはアッバース朝のカリフに忠誠を誓うスルタン位を保持した、最終的にはモンゴルの侵入によりアッバース朝共々実質的には滅ぼされている。
バイキングノルマン人の北海帝国がそのモデルとなることが多い。11世紀ごろから猛威を古い、ヨーロッパ全土を襲撃した。彼らの船は遠洋航海も可能だが、同時に河川を遡ることもでき、13世紀にはパリも襲撃を受けている。手工業などでは世界でもトップレベルの技術を誇り、農耕漁業の民であったが気候が変化し養うことができない人口を養うために海外への征服を行うようになったとも考えられている(諸説ある)。カナダの北部から、グリーンランド、スカンジナビア、シチリアなどに入植・征服し国家を作ることもあった。
キプチャクキプチャクはロシア南方の草原地帯から出現した。東ヨーロッパに侵入し、東ローマ帝国とハンガリー王国に接した。東ヨーロッパ各地をたびたび略奪したが、時には同盟なども行った。モンゴルに制圧され、モンゴル帝国内では親衛隊などを組織した、後にモンゴル帝国内の主要な役割を果たすようになる。なおモンゴルによる制圧を受けたときにモンゴルに抵抗した部族はイスラム圏の国々に奴隷として売られ"マムルーク"と呼ばれる白人奴隷出身の軍人となった。マムルークは後にエジプト・シリアなどを逆支配しマムルーク朝の国を作った。


■帝国
テオティワカン→アステカ421中米(モンテスマ)
ササン朝ペルシャ921中東(シャープール2世)
グプタ522インド(チャンドラグプタ2世)
フランク王国920北ヨーロッパ(カール大帝)
アラブ帝国1022中東(ムハンマド)
隋→唐1223中国(高祖)
神聖ローマ帝国1033北ヨーロッパ(フリードリヒ2世)
ヴェネチア共和国925南ヨーロッパ(十人委員会)


テオティワカン→アステカメソアメリカをほぼ統一した国家。太陽のピラミッドや月のピラミッドといった巨大建造物で。テオティワカンの都市を整備し莫大な富を集めたが7世紀ごろに突然滅亡している。後にアステカは無人になったテオティワカンを支配下におさめたがアステカの人々はこの街を「神々が住んだ町」と信じたという。アステカは強力な軍事中心の国家で、功績のあった軍人には「ジャガー戦士」や「イーグル戦士」の称号を与え、年金なども与えていた。商人などはスパイとして組織されていて情報管理も行われていた。強固で安全な街道網が整備されており、誰でも安全な旅が出来た。コルテスの侵入を受け、一時一進一退の攻防を繰り返すがスペイン人の策略に合い皇帝が捕らわれ1521年滅亡。
ササン朝ペルシャササン朝ペルシャはアケメネス朝ペルシアの伝統を引き継ぐ国家。創始者であるアルデシール1世はペルセポリス近郊の貴族であったが徐々に力を蓄え、遊牧系のパルティアを滅ぼして中東を支配した。ゾロアスター教を信仰した。ローマ帝国と対峙、ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕縛するなど軍事的にも大きな実績を持つ。5世紀ごろにエフタルの東方領土への侵入を許し国家が混乱に陥るが、名君として名高い21代皇帝ホスロー1世の治世で突厥と同盟しエフタル(白匈奴)を滅ぼした。642年にアラブとのニハーヴァンドの戦いで敗北し651年に滅亡している。
グプタイラク系のクシャナ朝を滅ぼしたインド系の国家。バラモン教を信仰した。チャンドラグプタ2世の治世で北インドを統一、全盛期を迎えた。その後エフタルの侵入を受け衰退、6世紀に滅亡したと考えられている。
フランクフランク族はゲルマン民族の一部族。ローマ帝国に侵入したゲルマン諸族の一派ではあるが、フランクはキリスト教に帰依し、ローマ人たちと共同したと考えられている。大陸ヨーロッパ全土を制圧するまでの勢力となるが、フランク人は分割相続の伝統を持っていたため指導力が分散した、結局宮宰のカロリング家がピピン?世の時代に"全ての分王国の宮宰を独占する"形で再統一を果たす(それまでの王朝をメロヴィング朝、これ以後をカロリング朝と呼ぶ)。その孫にあたるカール・マルテルがイスラム勢力を撃退する事でローマ教皇などキリスト世界の守護者とみなされるようになる。その後、西暦800年カール大帝の治世でカール大帝は"西ローマ帝国皇帝"に任じられた(これはクリスマスに行なわれたという話だから、大きなクリスマスプレゼントだといえる)。その後、あれだけ混乱を呼んだ分割相続の伝統を捨てなかったため、フランク王国は再度分割され東・中・西フランク王国になる。これらは現在のドイツ・イタリア・フランスの原型と考えられている。その後分割相続は廃止された。
アラブ帝国ムハンマドのイスラム教創始により始まった国家および勢力圏。現在私達がイメージするアラブ圏はこのアラブ帝国の支配から始まる。何度か王朝が倒れるが、アラブ人としての意識とイスラムの力で再度統一されることを繰り返すが、最終的にはモンゴルの侵入でアッバース朝が滅ぼされて国家としては滅亡する。
隋→唐隋は北周の随国公(将軍)であった楊堅(文帝)が北周の静帝から禅譲を受けて建国した国家。北周を制圧後、中国南部を支配していた陳を支配して中国を統一した。煬帝の失政と高句麗遠征に失敗で反乱が多発し、太原留守(太原における皇帝の代理)であった李淵は長安を攻め落とし自らが擁立した恭帝に禅譲をさせて、唐が建国された。二代皇帝の高宗の時代に突厥を下し、三代皇帝高祖の時代に高句麗を下して中国全土から中東に至る支配圏を確立した。西暦750年ごろ、六代目皇帝玄宗の時代は唐の絶頂期を迎えるが、末期に楊貴妃への寵愛に耽り、大乱が起きた。その後徐々に衰退し10世紀ごろには中国の支配権を失っている。※禅譲…中国の支配者としての資格を失った皇帝が次の支配者に権利を受け渡す事。平和的な手段と思えるが、魏から西晋への禅譲以降はほとんどの廃帝は殺されている。
神聖ローマ帝国フランク王国よりも早期に領域国家として成立するが、最盛期はルネサンス前夜「玉座に座った初の近代人」とされたフリードリヒ2世時代、イタリアを統一も成し遂げ十字軍でも一定の成果を上げるが、外交的な解決であったためローマ法王に破門される、近代まで国家は存続するが末期は「神聖でも、ローマでも、帝国ですらない」というヴォルテールの言葉が残されている。東フランク王国を引き継いだザクセン人主体の国家(逆に言えばフランク王国に支配されたザクセン人の居住地域が東フランク王国とも言えるが)。ドイツ帝国とも言われた。ザクセン人は王は緊急時以外には置かない政治システムであったためそれを引き継いだ神聖ローマ帝国も一部の例外的な時代を除くと皇帝の権限が弱く、小国の連合体という側面をまぬがれなかった。20年にわたって皇帝が不在となる"大空位時代"や、最終的には合議で分裂状態が固定され(ウェストファリア条約1648年)最後まで中央集権が出来ずに、プロイセンの台頭で崩壊体制事態が機能不全に陥った。1806年ナポレオン=ボナパルトの侵略を受け解体。
ヴェネチア共和国政治体系的にはもっともローマを引き継いだ国家。強固な共和制と、元首の非世襲選出、法のもとでの平等と自由の堅持。強力な情報網(大使館を常設し始めたのはベネチアである)と粘り強い政治スタイルで1000年にわたり独立を保持した。「アドリア海の女王」や「最も高貴な国」と呼ばれることもある。安定的で言論の自由を貴んだため反動宗教改革(代表的には異端審問)を受け付けずルネッサンスの最後の守護者となる、出版業を確立し学生にも買える本として単行本も生み出した。1779年ナポレオン=ボナパルトの侵攻を受け、降伏、滅亡した。


■小帝国
イングランド332北ヨーロッパ(リチャード?世)
教皇領334南ヨーロッパ(ボルジア)
チベット322チベット高原(ティソン・デツェン)
キエフ大公国→モスクワ大公国332西ユーラシア(イワン雷帝)
カネム帝国221南アフリカ
大和322極東(天武)


イングランド紀元前55年のユリウス・カエサル侵入後ローマ帝国に属州ブリタニアとして編入されたが、後にガリアへのゲルマン民族の侵入と混乱の中で放棄される。その後土着のノルマン人達はアングロサクソンの侵入を受け同化、暗黒の七王国時代を抜け(ちなみに有名なアーサー王の物語はこの頃のもの)、バイキングの支配やノルマン人であるノルマンディー公の侵略を受けるがこれも同化、その後フランスとの間で大陸側の領土を巡る闘争が起きるが、十字軍で"獅子心王"とよばれたリチャード1世がこの問題を騎士道的に解決した(ちなみにこの人は大陸側の領地の大半をほぼ無条件にフランスに割譲してまで、十字軍に行きたかったのだと思われるイングランドにはわずか六ヶ月しか滞在した記録が無い。最高の騎士にして、最高のロマンチスト)。長期にわたる他民族に拠る支配と同化の歴史はイングランドに強固な議会を成立させたとされている。その後議会は"マグナ=カルタ"などで君主の権力を制限するなど、大陸国とは異なる共和制的な方向に進む。
教皇領8世紀にフランク王国のピピン3世から領土を寄進され成立。ローマ法王庁が支配する国家として長らく成立していた。アヴィニヨン虜囚を経て、実質的な分裂状態に陥るが、アレクサンデル6世の時代にチェーザレ・ボルジアが再統一の事業を始め、ユリウス2世の時代には再興された。チェーザレはマキャベリによって"理想的な君主"とされたことで有名。1796年ナポレオン=ボナパルトの侵攻を受け、結果チザルピーナ共和国(フランスに擁立された衛星国)に併合された。
チベット帝国チベット高原を支配したチベット民族は幾たびか統一国家を成立させたが、ティソン・デツェンの時代に唐の混乱(安史の乱)に乗じて長安を占領し、仏教を国教に定めた(喫茶の風習が持ち込まれたのはこの時期)、このあと時間をかけてチベット仏教が確立した。ダライ・ラマ5世の頃にダライ・ラマ法王を頂点にするチベットの政治宗教一致の耐性に移行した
カネム帝国8世紀ごろアフリカ中部に成立した王国、サハラ交易の南端で、北アフリカと交易を持っていた。1200年ごろドゥナマ・ディッバレミの時代にムスリムへ改宗。中央アフリカ一帯を支配した。19世紀、ソコト帝国の勃興に従い滅亡するが、ほぼ内実は同じと考えられる、最終的にはソコト帝国も大英帝国に滅ぼされる
ティワナク・ワリ帝国ペルー南部、チリ北部からボリビアの南部まで影響を与えた文化圏。数々の遺跡を残し、ペルー共和国北部にあるワマチューコ市郊外のビラコチャパンパ遺跡や、南部のクスコ県にあるピキリャクタ遺跡は有名。街道と巨大建造物、盛り畑農法や溜池の整備による高度な農業生産性で文化圏を維持、拡大したと考えられている。
キエフ大公国→モスクワ大公国ウクライナの平原にできたスラブ人の国家。首都はキエフ、ビザンチン(東ローマ)帝国と幾度か侵略を受けるが撃退。この後ビザンチン帝国との交流が始まる。1206年モンゴルの侵攻を受け実質的に滅亡するがモンゴル衰退後キエフ大公国再興とともにモスクワ大公国が立ち上がる。ヴォルガ川の水運を押さえたモスクワ大公国が台頭しキエフ大公国を吸収した。この時ビザンチン帝国が滅亡していたため、東方正教会を引き継ぎ、後に東ローマ帝国の継承者を宣言した、後のロシア帝国
大和200年ごろから500年にかけて徐々に日本列島の有力国家(邑)群が統合されて王の王、大王(おおきみ)を確立したことでできた連邦国家。この後、ヤマトタケルの物語に統合されたストーリーにあるように征夷を続け、日本を統一した。大陸の遊牧民の影響を大きく受けており、青銅器の時代を飛び越して鉄器を用い、騎兵を活用した(また役位に右大臣・左大臣と、"右・左"をつけるのは典型的な匈奴→高句麗の伝統である)。大和は奈良→南大阪のことで(北大阪はまだ内海であった時代である)、この地域を政治の中心を置いた。大陸との交流も盛んで、1〜200年ごろの中国の歴史書、魏志倭人伝には倭王の文字があり、大乱の仲裁に中国の使者が日本に訪れたことを記している。なお国家としての統一が確実になるのは、壬申の乱を経て、蘇我氏による国家の統一事業の成果を受けたとった天武天皇の頃(673年頃)と考えられる。


4:遊牧民の世紀/紀元後1200年〜紀元後1600年

勢力軍事力商業力スタート地区
■遊牧民
倭寇+14
コサック4
ジュンガル+14


倭寇東アジアの海洋民が形成した海賊活動を総称して倭寇とよぶ。但し、実際の日本人は3割程度であとは、マレーシアのパタニ王国などの東〜東南アジアの海洋民や中国人で構成され、中国の密輸商をはじめ後期にはスペイン・ポルトガルなどの支援を受けて活動をした。大きなグループは数千人の構成員を持ち城攻めなども行なった。最終的には1588年豊臣秀吉の倭寇禁令で"倭寇"は収束したが、鄭成功や林道乾などは海賊活動あるいは戦争活動を続けた(ちなみに鄭成功は平戸出身である)。
コサックコサックはウクライナ周辺を押さえた自治集団で、半農武装集団であった。元々は独立した存在であったが、ウクライナがモスクワ大公国に編入されて以後はモスクワ大公国、帝政ロシアの統治下に入った。自治権と引き換えに軍事的忠誠を約束していたが初期には帝政ロシアに度々反旗を翻した。現在のロシアにも300万人程度のコサックが存在している。
ジュンガルかつてはモンゴル族にしたがっていたオイラト族がモンゴル族の凋落と共に地位を確立した。最後の遊牧帝国と呼ばれる。ラマ教の後押しを受けモンゴル高原の統一を図るが、反旗を翻したハルハ族に清が援助を行い、清との戦争に突入。一時は一進一退の攻防を繰り広げるが清側が大量の火器を装備するようになると敗北し、オイラト族は絶滅されたと言われている。ジュンガルの支配していた東トルキスタンは新疆と呼ばれ清の支配下に入った。


■帝国
1024中国
ティムール帝国931東ユーラシア
フィレンツェ924南ヨーロッパ
オスマン帝国1231中東
ヴァロア朝→ブルボン朝1231北ヨーロッパ
ムガル帝国931東ユーラシア
ポルトガル743南ヨーロッパ
スペイン941南ヨーロッパ


元衰退期に起こった白蓮教徒の反乱(紅巾の乱)から起こった国家(元王朝は内乱の多さに嫌気がさしてモンゴル平原に戻った)。貧農出身だった朱元璋が建国。永楽帝の時代には中国全土を支配し、鄭和に南海遠征を行わせ、中東はおろか、アフリカ東岸まで到達して、いくつもの国に朝貢関係をつくらせている(中世の艦砲外交と言えるだろう)。と、同時に北へと去った元(北元)への攻撃を行わせるなど積極的攻勢を行った。永楽帝の死後、これらの攻勢路線は放棄されたが、それにより国力の充実をみて最盛期を迎えたと考えられている。その後徐々に国勢は低下し、その上モンゴル、オイラトなどの遊牧民の勢力の回復、倭寇の跋扈などで苦しめられた、この事を"北虜南倭"と言う。最終的には女真族の清(初期は後金)に滅ぼされた。
ティムール帝国モンゴル帝国を継承した国家のひとつ(ちなみに明の政治制度などは元からの継承が多かったのでそういう意味では明なども継承国家と言えるが)、ティムールが建国。イラン高原を統一し、メソポタミア(チグリス川流域)やインドなどへも侵攻をおこなった。モンゴル帝国の西部がこれにより再統一された。最終的にはモンゴル帝国再興を目指して、明を目指すがティムールが病死しこれはうやむやのうちに中止された。ソグド人によって発祥した都市サマルカンドを首都にして通商や文化振興も行った。明との国交も回復し国際通商などで大いに栄えるが、最終的にはウズベクや他の遊牧民の侵入によって崩壊した。
フィレンツェローマ人、ユリウス=カエサルにより建設された都市。その後ローマ帝国崩壊後さまざまな勢力に支配を受けてきたが、12世紀ごろに経済力の拡大とともに自治都市(フィレンツェ共和国)になる。13世紀ごろからは経済の興隆がはじまり、ジョバンニ=バルディはイギリス王、フランス王などに戦争の資金を貸し付けたが最終的にはイギリス王の債務不履行によりバルディ家は破産し同時にフィレンツェにあった4つの有力金融機関が破綻している。ダンテやジョットー、ボカッチョなどのルネッサンス初期を代表する作家や芸術家はこの時期のフィレンツェ人が中心を占めている。14世紀にピサを占領し海港を得て、15世紀にメディチ家が台頭し政治的にも安定し全盛期に入る。この時期のフロリン金貨はヨーロッパ全域の基軸通貨となり、フィレンツェがヨーロッパ経済を支配した。メディチ家とフィレンツェの盟主となったコジモは外交手腕を発揮してイタリア内の勢力を均衡させるとともに、孫のロレンツォと共にルネッサンスの守護者となった。ダヴィンチを筆頭にルネッサンスが最盛期を迎えたのはこの二人の力によるだろう。その後、フランスのイタリア侵攻時にジロラモ・サヴォナローラによる神権政治が始まり文化・政治・経済が弱体化、その後サヴォナローラが刑死すると。ハプスブルク家の支援を受けたメディチ家が再度フィレンツェを掌握するがこの後は低迷する。
オスマン帝国混乱状態が続いていた小アジアの小王国や軍事集団を征服しオスマン1世が13世紀ごろに確立した小王国が起源。メラメト2世の時代1000年以上にわたって続いたビザンツ帝国を滅ぼし、16世紀にスレイマン1世の時代に最盛期を迎えた。中東、東欧、アフリカを支配下に置いた。強固で確立された官僚制度を持ち長く(およそ600年!!)繁栄を「文字通り」極めたが、18世紀頃からは西欧列強の侵略を受けるようになる。第一次大戦に参戦し敗北、1922年にカリフ制が消滅し滅亡。トルコ共和国になる。
ヴァロア朝→ブルボン朝イギリスの侵攻を受け(100年戦争)分裂状態にあったフランスをジャンヌダルクの登場によって再統一(1453年英国撃退)したのがヴァロア朝のシャルル7世である。その後シャルル8世の時代にイタリア侵攻を試みるが、当時レコンキスタを終了させ国土統一を完了したスペインとの利害の衝突や、教皇アレッサンドロ8世の政治力の前に断念する。その後しばらくの安定期の後、ユグノー戦争(プロテスタント対カトリック)が勃発、アンリ3世が暗殺されヴァロア朝が断絶すると王権はブルボン家に引き継がれた。アンリ4世の即位と共にナント勅令でプロテスタントにもカトリックとほぼ同様の権利を与え内戦を終結させた(1598年)。その後は順調に王権を拡大、ドイツで起こった30年戦争(ドイツにおけるプロテスタントとカトリックの抗争)などへの介入などを経て大国としての地位を確立する。"太陽王"ルイ14世の時代には強力な王権と軍事力をもつ強国となった。しかし、この時期にオランダ侵攻などで領土を獲得するが、軍事費も増大。またプロテスタントに与えた地位の剥奪を意味するフォンテーヌブローの勅令で政治的不安定をまねきフランス資本の流出させ、経済的な問題を解決するための重税で国民を疲弊させた。この悪癖は18世紀のルイ16世の時代まで続き、ついにフランスの財政は破綻、特権階級である貴族や宗教指導者にも税負担をさせようとしてフランス革命が勃発した。
ムガル帝国滅亡したティムール帝国の王子バーブルがインドに侵入して作り上げた帝国。アクバルの時代にインド全域を支配した。ポルトガルなどとも交流を持ち(インドのゴアに居留地があった、同様の例でいえば長崎の出島)宗教的には寛容で、多宗教の指導者間で討論をさせることを好んだ。支配体制の緩みから徐々に衰退していったが最終的にはイギリスの東インド会社の侵略で350年の歴史に終止符を打った。
ポルトガル大航海時代の先駆者、ブラジル、アフリカ、インドに植民地を置き、東南アジアを回って日本まで到達し、貿易を行った。エンリケ航海王子のセウタ攻略後、アフリカ探検を行い、喜望峰周りのインド航路を開いたことで地中海中心であった世界海運・商業の地図を塗り替えた(それまではインドの物産を入手するには、ヴェネツィアとオスマン帝国)。ブラジルに大きな植民地をもち、ナポレオン侵攻時には王家はブラジルに逃れていた事もある。1910年革命で共和制へ以降、同26年クーデターで軍事独裁が始まる。1974年のカーネーション革命で独裁制に終止符が打たれ現在に至る。
スペイン元祖"日の没する事の無い帝国"。イベリア半島からイスラム勢力を除去し(レコンキスタ)、ヴェネツィアと共同でオスマントルコと軍事的に対立した。世界を海洋支配し、アメリカに侵入、インカ・アステカを滅亡させ、莫大な植民地からの収入を得た。ヨーロッパ内でのパワーゲームを戦ったが、アルマダの海戦での敗北や30年戦争への介入の失敗(神聖ローマ帝国軍を補助したが、結果期待した見返りを得られなかった)。その後、支配していたオランダ、ポルトガルが続いて独立、最終的にはフランスとのパワーゲームに破れ大国の地位を滑り落ちた。


■小帝国
戦国日本441極東
スウェーデン341北ヨーロッパ
プロイセン441北ヨーロッパ
タイ322東南アジア
ズールー322南アフリカ
ミシシッピ→イロコイ連邦222北アメリカ


戦国日本15世紀に成立した統一武家政権。このゲーム的には豊臣政権の頃で、この時世界で最高度の軍事力を保持していた。13世紀ごろの蒙古襲来(元の侵攻)によって日本人の日本人としての国家意識は高まった。その後鎌倉幕府崩壊、室町幕府で再統一、戦国時代突入と統一と崩壊を繰り返す。統一政府が主に封建制を採用したため各個の地域が独立しやすく長期に安定を作り出すことが困難であった。戦国時代に織田信長が中央集権国家を志向した統治体制を作りだし、豊臣秀吉はそれをそのまま引継ぎ、朝鮮出兵などを行うが政治的な要因で失敗した。但しこの当時はこの侵攻以外にも海外へと進出しており東南アジア各国(アユタヤやルソン)には日本人街があった。秀吉の死後、徳川家康によって中央集権的な制度を持ち、鎖国的な封建制に再度揺り戻され、江戸幕府が成立した。江戸幕府の統治は巧妙で、300年以上の安定した統治を作り出したが、儒教的「安定社会」であったため軍事力は低下し後のヨーロッパ各国の間接的介入を招く。最終的に江戸幕府も消滅するがそれは武力による消滅ではなく大政奉還で、天皇および明治政府へと権限を委譲した。
スウェーデンバルト海の制海権を握り、ヨーロッパ北方の大国となったバイキングの子孫。バルト海沿岸の地域を制覇し、ドイツ北方の自由都市からなったハンザ同盟からバルト海の制海権を奪取、幾つかの自由都市を支配した。その後30年戦争に介入し、不運にして君主であるグスタフ・アドルフが死ぬと徐々に衰退を始め、プロイセンの成立でドイツの領土を喪失、その後はロシアとの衝突でバルト海の制海権を失い、大国としての存在感を失った。
プロイセンブランデンブルク選帝侯領とプロイセン公国(騎士修道会ドイツ騎士団領)の連合によって成立した。強力な軍国主義で神聖ローマ帝国の核となり、後にドイツ統一の中心となった。ナポレオンに一時屈するが、シャルンホルスト・グナイゼナウ・クラウゼヴィッツなどを中心に軍制改革を行いプロイセン参謀本部が設置され戦争における強力な頭脳集団を集中運用し、鉄道、電信などの新技術を戦争に取り入れることで後の普墺戦争を勝利に導きドイツを成立させた。
タイ(シャム)王国三国志などで語られる『南蛮』氏族の一つ小タイ族(シャム人)が、漢民族の南進(明の興隆による)により雲南省から南下してチャオプラヤ川(メナム川)下流域に移住して建国された、初期はアンコール(クメール)王朝の支配下にあったがアンコール王朝の支配力が弱まると共に独立し最終的にはクメール人は駆逐された。アユタヤ-トンブリー-チャクリー王朝と王朝は変わるが、基本的には連続した王国である。
ムテトワ帝国→ズールー王国ムテトワ帝国は南アフリカの西岸一体を支配した、皇帝ディンギスワヨはシャカ=ズールーを後見し、ズールー王即位を後押しした。その後ディンギスワヨがンドワンドウェ王国との戦闘中に敗北すると、ムテトワ帝国、ンドワンドウェ王国を併呑した。この事からわかるように、シャカの支配化でズールーは軍制改革を行い、巨大な盾と手槍を用いた機動的な(ただし、人力の)戦い方を採用し軍事強国となった、後のイギリスの侵攻時にはイギリス軍を打ち破ってさえいる。ただし、シャカ自体は子供時代の虐待が原因で、冷酷で場当たり的な性格を持ち、恐怖政治、また発作的な虐殺の実行で人々に恐れられた。
ミシシッピ首長国家→イロコイ連邦南米からとうもろこしが移植された事からミシシッピ流域に成立した広域国家がその後崩壊し(一説によるとスペイン人探検家に接したことによる伝染病の蔓延)、その後様々な部族に分かれたが、その中でもイロコイは最有力の国家。イロコイは6部族からなり、共通した特徴として数世帯が同時に暮らす「ロングハウス」と女性首長である点からもわかる「母系社会」という特徴を持つ(ロングハウスや女性の権利尊重などはバイキングなどと共通している)。男は戦士になり、女は農耕を行う。6部族にはそれぞれ位置づけがあり、セネカ族、モホーク族は同等の長兄(モホークは西の扉を守るもの、セネカは東の扉を守るものとされている)、オノンダーガ族は兄、オナイダ族、カユーガ族、タスカローラ族は弟である。統治は50名の氏族代表者(セイシャム)による元老院制、各部族内の事情には干渉しない連邦制であるためイロコイ連邦と呼ばれ、アメリカの連邦制度のお手本になったとも言われている。アメリカとは1760年に平和条約を結び連邦を維持した、現在もカナダとアメリカの東部国境地域で自治を保っている。国旗は彼らが条約を結ぶときに作る「ワムパム・ベルト」、独自のパスポート(鷲の羽根を使ったもの)も発行している。


5:ヨーロッパの世紀大航海時代/紀元後1600年〜1900年

勢力軍事力商業力スタート地区
■遊牧民


■帝国
ロシア帝国1031西ユーラシア(ピョートル?世)
1234中国(愛新覚羅・ヌルハチ)
フランス帝国1242北ヨーロッパ(ナポレオン・ボナパルト)
ネーデルラント944北ヨーロッパ(ウィレム1世)
大英帝国1344北ヨーロッパ(エリザベス)
アメリカ合衆国743北米(ジョージ・ワシントン)
ドイツ帝国853北ヨーロッパ
大日本帝国543極東(明治大君)


ロシア帝国モスクワ大公国が長い停滞期を経て1721年ピョートル一世が「インペラトール(ローマ皇帝)」を名乗り成立した。ピョートルは清と戦いユーラシア全域と東アジアの北部を押さえ、西欧からの技術を導入し大国に仲間入りした、意外だが文化的には西欧と拮抗しており「コース料理」という食事形式をフランスに伝えたのはロシア宮廷であるとされる。清を打ち破った後には江戸幕府に交易を求めている。ナポレオンの侵略を焦土戦で撃退し、その余勢をかって各地で南下政策を取るが敗退、その後1904年日露戦争中にロシア革命が発生しその後混乱は続き1917年から内乱、最終的には革命が成功しソヴィエト連邦が成立して帝政ロシアは滅亡した。
満州の女真族が起こした最後の中国王朝。1644年北京を陥落させ明を滅ぼして成立した。但しこの後も鄭一族が台湾を占領し頑強な抵抗運動を行なっていた。1700年代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の治世で最盛期を向かえた。ロシアの南下政策を撃退し対等の協定を結んだ。この協定でアムール川で北部の国境線が確定。また東部は東トルキスタン(新疆)、南はチベットと現代の中国の領土とほぼ重なるエリアで確定させた。その後200年後、西欧列強の侵略を受け弱体化、内乱も続き。1912年中華民国が成立、皇帝溥儀が正式に退位し滅亡した。
ネーデルランドオランダを指す。17世紀初頭から台頭し、東インド領土を獲得、ポルトガルから香辛料の交易を奪い、ヨーロッパ域内でも流通を一手に担い繁栄した。この後イングランドとの抗争、フランス革命の余波による分裂、ベルギー独立などを経て弱体化、ナポレオン戦争後はイギリスの世界覇権が確立したため没落、残った海外領土を細々と維持した。第一次大戦時は中立を維持、第二次大戦は中立を宣言するがナチスドイツに全土を占領され王室はイギリスへ亡命、海外領土は日本に奪取された。第二次大戦後、海外領土が独立し大国としての存在感を失った。
フランス帝国革命フランス以後の第一共和制のフランスを扱う。共和制はジャコバン派による恐怖政治(ちなみにこれは他称ではなく自称である)で幕を開けたが、反革命を掲げる他国との戦争が続く中混乱が続き、最終的にナポレオンの執政政府が確立するまで安定する事は無かった。ナポレオンは皇帝に即位、ヨーロッパ全土を蹂躙し、ヨーロッパ統一を果たすかに見えたが、イギリス攻略を諦め、ロシア遠征を失敗しライプツィヒの戦いでも敗北失脚した。その後ナポレオンは再び皇帝に復活するがワーテルローの戦いで敗北し完全に息の根を止められた。ナポレオン失脚後、旧体制(アンシャン・レジューム)への復古を諸外国のウィーン議定書で承認されブルボン家の国王が戻ってきたがその後第二共和制、第二帝政、第三共和制と結局共和制に復帰している(ちなみに第三共和制は異常に腐敗した政府で、裸で走って捕まった大統領などエピソードに事欠かない)。この後ナチスドイツによってヴィシー政権が立てられるが、第二次大戦終了と共に共和制へと復帰した。
大英帝国1066年のウィリアム征服王以来のブリテン島およびアイルランド征服は1801年のアイルランド併合法で完成し、以後世界(主にヨーロッパ)の勢力均衡策を推進する、この立場を名誉あるバランサーと称する。海賊海軍を率いて富を集積し(有名なフランシス=ドレイクは世界一周という名誉のほかに、スペインから国家予算の3倍もの戦利品を大英帝国に与えている)、効率のよい社会制度を確立する事で産業革命を達成した(中央銀行の成立や、農村への委託ではなく「工場」という形での工業生産体制の確立)。ナポレオン戦争に勝利した後は世界覇権を確立、カナダからオーストラリア、インドや香港に広がる広大な植民地を維持し、奴隷貿易が代表するような過酷な経営を行なった。第一次大戦後は徐々に凋落、第二次大戦後には海外領土をほとんど喪失し完全にアメリカへ覇権を譲った。
アメリカ合衆国1776年イギリスの海外領土から独立。初めから民主主義国家としてスタートした、当時は民主主義国家は珍しい存在であった(但し、奴隷制度は維持)。1836年メキシコからテキサスを併合現在のアメリカの領土をほぼ確立している。その後奴隷制の維持をめぐって南北戦争が勃発するがこれを解決するがこれを解決し奴隷開放を行なっている。その後鉄道や製鉄、石油産業、工業の発達(特に1908年のフォードモーターの自動車産業の創造)によって世界最強国へと駆け上がる。
ドイツ帝国プロイセンが1870年ナポレオン3世との普仏戦争に圧勝し、パリを制圧、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ諸侯からドイツ皇帝に推挙されて確立した。初代宰相はビスマルク(ちなみにこの普仏戦争の開戦もビスマルクによるエムス電報事件と呼ばれる陰謀による)。普仏戦争後はアルザス=ロレーヌ地方をフランスから併合したためフランスとは常に緊張関係にあった。南米、アフリカ、アジアに海外領土を獲得。拡張主義全盛のヴィルヘルム2世時代に第一次大戦が勃発し敗北、ドイツ革命が発生しワイマール共和国が成立し滅亡。
大日本帝国1889年大日本帝国憲法発布で成立、当時のイギリスなどと同様に、立憲君主制の政体を持った。天皇は国家機関および貴族院の任命権を持ち、また政府による政策決定にも関与した。衆議院は選挙により選ばれていた。当初は貴族院と同等の権限を持つに過ぎなかったが、大正デモクラシーなどを経て政治、立法の中心と認められるようになり、天皇は立法を議会の協賛(同意)を得て行なった。但し陸海軍は政府にも、議会にも属さず、天皇の統帥の下にあったので徐々に暴走したとも考えられている(但し実際には世論に押されて暴走した可能性も高い)。朝鮮半島、台湾、また国際連盟からの委任統治領として南洋群島を統治した。中国大陸にも進出しアメリカと利害が衝突し第二次大戦に突入、敗北。


■小帝国
大コロンビア541南米(シモン・ボリバル)
アルゼンチン共和国441南米(ホセ・デ・サン=マルティン)
メキシコ合衆国341中米(ベニート・フアレス)
イタリア441南ヨーロッパ(ジュゼッペ・ガリバルディ)
中華民国443中国(孫中山)
ソヴィエト連邦751西ユーラシア(ウラジーミル・イリイチ・レーニン)


国名解説
大コロンビア南米大陸の独立と統一を目指して設立された。ルソー、モンテスキューの以後の時代で、この頃は大航海時代に培われた植民地が実は何箇所も独立を遂げている(但しいずれも白人主導による白人支配に対する独立)。シモン=ボリバルは何度もの敗退にもくじけず、スペインの支配を南米の北部から払拭するが、最終的には配下の将軍達をコントロールしきれず、大コロンビアは分裂した。
アルゼンチン共和国コロンビア独立運動と平行して起こった対スペイン独立運動。ラ・プラタ連合州から始まった独立運動で、ホセ・デ・サン・マルティンが主導した。サン・マルティンの戦略はスペインの南米植民地の中心である、ペルー支配を粉砕し、アルゼンチンの独立を果たすというもので、チリの独立もそのための布石として行われた。ペルーはコロンビア側も同様に戦略的に重視していたため、ペルー独立は結果として、この2勢力の共同作業となった。この後、サン・マルティンとボリバルは会談を持つが、政治的主張が異なったため(ボリバルは共和主義、サン・マルティンらはインカ皇帝を復活も検討していたように君主制を志向していた)物別れに終わったが、この別れは双方にとって不幸なものとなったと言える。なおブラジルもこの後独立するが、ブラジルは本国ポルトガルの弱体化に乗じて、自前の皇帝を立ててあっさり分離独立を果たした。
メキシコ合衆国宗教者ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャの叫びから始まったスペインからの独立運動で成立した。イダルゴの死後、同じく司祭であったホセ・マリア・テクロ・モレーロス・イ・パボンが独立運動を展開、これも刑死するが、最終的にはスペインでのクーデターや、それに伴う反政府勢力の統一などがあり、最終的には広範囲に安定的な国家を設立した。
イタリア王国1861年イタリア各地の都市国家が統一して成立。サルディーニア・ピエモンテ王国と、ガリバルディの義勇兵団の協力で統一された。しかし、要の戦争ではガリバルディ以外は戦勝を得られず、このときから第二次大戦でも苦しめられた軍(国家)の不統一に苦しめられている(但し普墺戦争、普仏戦争では戦争全体の戦勝側についたため、戦闘に敗北しつつも、ヴェネツィアを獲得し、イタリア統一を達成した)。
中華民国近代中国の祖としての中華民国を扱う。国民党政権か、共産党政権化は問わない。初期に南京政府と、北洋軍閥の雄である袁世凱との交渉で統一するも、その後袁が皇帝へ即位しすぐさま退位、病死と混乱を続けなし崩し的に分裂。その後孫文指導の下で国民党、共産党の垣根の無い統合を目指す(第一次国共合作)、この路線は孫文死後も継続され成果を上げた。このゲームではこの時期までの中華民国を"中華民国"とする。
ソヴィエト連邦1917年ロシアにおける2月革命で発生した共産革命政府。1922年ロシア帝国軍と戦い勝利、他国列強の介入も退けた。1924年レーニンが死ぬと、書記局の権力を巧みに活用したスターリンが国家を掌握、一党独裁を明確に方向付けた。1929年には満州で中華民国軍を破る。スターリン時代の経済政策については諸説あるが、机上的な農業効率化、"超"工業傾斜の政策は国内に無理を生み、多くの餓死者などを出した(ただし工業化の成功で経済は発展した)。第二次大戦ではドイツ軍と戦い、参戦国で最大の被害を出しながらも、最終的には勝利、アメリカと共に超大国の地位を築いた。